技術者がウナギ職人よりもエラいとは限らないという話

米国在住の技術者と情報交換をしているのですけど、ちょっと困っています。

真面目な性格なのは良いのですけれども、何となく物事を分析した気になって満足しています。

ふと周囲を見渡すと、数学を学ぶことが大好きな技術者も近くに存在しました。

彼らはお金儲けに興味を持たず、ひたすら勉強を続けています。一見すると技術者として技術を磨くので、「崇高(すうこう)」に見える人もいるようです。

しかし私が鰻重を食べ歩いていることを、鼻先で笑われることがありました。自分が笑われることは別に構いませんけど、うなぎ職人の方々を笑われるのは我慢なりません。

そこで今回は、技術者がウナギ職人よりもエラいとは限らないことを説明させて頂くことにします。

そもそも技術や経済とは

今回はストレートに、重要なことから書いていくことにしましょう。

まず最初に断っておくと、生物というのは存在する必要性はありません。そもそも自然界に「必要性」というものは存在しません。

別に人間が存在しないと太陽系が消滅するということはありません。むしろ存在しない方が、地球の環境に悪影響を及ぼさないでしょう。

その悪影響を及ぼす原因は、「技術」が生み出した訳です。そんなものがあるから、地球の人口は一気に増加した訳です。

人間は「自分が存在したいから存在する」という訳です。経済とは何でも構わないから消費することです。

もしも地球にやさしく生きたいならば、大豆やコメや麦といった穀物を中心とした生活をする方が良いです。

牛や豚を育てるのには、大量の穀物が必要です。マグロ1kgを育てるには、サバが25kgも必要となります。

私も技術者のハシクレな訳ですけれども、技術が必ずしも人間の生活に役立つ訳ではありません。そして技術には、善も悪もありません。

そうやってみると、果たしてスマートフォンは必要なのでしょうか。生きていくだけならば、食べ物さえあれば良いです。

表現を変えると、技術や経済とは「無駄」を楽しむことだと言い切れるかもしれません。

経済を回すとは、お金を循環させることです。別にコンピュータを製造するのも、鰻重を作るのも、経済的観点では大差のない話になります。

使わなければ意味はない

大差がないことだと言っても、技術は人々の生活に大きな影響を及ぼします。笑顔の出ない生活を送るよりも、笑顔の出る生活を送った方が楽しいです。

一時期は一気に増加した人口ですけれども、先進国の人口は減少しつつあります。だから存在してしまったからには、技術や経済を活用して、出来るだけ多くの人々が楽しい生活を送れた方が望ましいです。

「人はパンと水のみにて生きるにあらず」です。

そのような時、技術を身に付けるだけで使わないというのは、世界に全く影響を及ぼさないということです。ただ個人の脳みそに蓄積して、消え去っていく。

もちろん役に立つかどうかを見極めるのは難しいです。だから「ともかくやってみよう」とか、「ともかく興味があるから勉強してみよう」というのは大切なことです。

素晴らしい研究成果というのは、案外と意外なところから生まれたりするものです。

それに役に立つ研究というのは、本当に稀なものです。人々の生活に影響するような研究は、千のうち三つくらいだと言われている程です。

だから無駄を承知で取り組んでみるということには価値があります。しかし何も考えずに取り組み、何もアウトプットを出そうとしないのは困りものです。

結果としては同じことになっても、当たることを目指して千の研究をするのと、当てることを考えもしないのは全く異なります。

吸収するだけで何も生み出さないブラックホールであれば、うなぎを焼くことは文化活動の継承とも言えますし、鰻重を食べて満足できる人もいます。

こちらは立派な経済活動です。相違点は、人類全てに影響を及ぼすか否かという点くらいでしょう。

これは作家も同じです。何も書かない作家は、書くことによって経済活動を生み出すことがありません。もし書いたのであれば、それがマンガであっても経済活動を生み出します。

良く出来た作品は、多くの人々の心を感動させます。人類に影響を及ぼすこともありますし、「当たった研究」のようなものです。

鰻重も同じことです。美味しい鰻重は、人々の心を感動させます。

個人の趣味で本を購入するという「ささやかな経済活動」をして、何もアウトプットを生み出さないことを悪事だとは言いません。しかし誰かを楽しませるという点において、うなぎ職人に及ばないことは確かです。

知的能力は個人次第

そして知的能力において、技術者の方がウナギ職人を上回るということは保証されていません。

美味しい鰻重を作るのには、誰にでも出来ることではありません。正確に観察して、的確に分析することが必要です。

醤油や味醂(みりん)といったタレとウナギと白米だけが材料とは言っても、うなぎの蒲焼を美味しく作るパラメータは無数に存在します。技術者のプログラミングはAIが徐々に可能になっていますけど、ウナギの蒲焼は目途が立っていません。

それに何より、例えば野田岩五代目の弟さんには、公認会計士になっている人もいます。いったい技術者と名乗る者のうち、どのくらいが公認会計士となることが可能でしょうか。

こうやって状況を俯瞰すると、技術者の方がウナギ職人よりもエラいという人がいたら、いったい何を根拠にエラいと主張しているのでしょうか。

技術者だからエラいということは、ちっともありません。まずウナギ職人の方が知能指数や観察力/分析力に長けていることもある訳です。そしてウナギ職人は、鰻重を作ることによってアウトプット(成果)も生み出します。

つまり頭が良いことをエラいと考えるなら、うなぎ職人の方がエラいことも起こり得る訳です。アウトプットを全く出さない技術者は、うなぎに限定されるけれども技術的アウトプットを出すし、さらに経済活動に貢献するウナギ職人よりも、アウトプットの点で及ばない訳です。

まとめ

こういった訳で、技術者が必ずしもウナギ職人よりもエラいとは限らない訳です。

少なくとも自己満足に浸って何もしない技術者よりも、人々に満足して貰おうと頑張っているウナギ職人の方を、私は遥かに尊敬しています。

それに今まで説明して来たように、美味しい鰻重を作るのは誰でも出来ることではありません。また安定して美味しい鰻重を作るというのは、立派なビジネスです。

コンピュータ技術のことしか知らないIT技術者よりも、世界や経済に貢献するという点では遥かに優れているし、実現の難易度は高いです。

だから私はウナギ職人を尊敬しているし、美味しい鰻重を求めて、日本のアチコチを彷徨っている訳です。

鰻重を軽んじる者は、鰻重にしてやられることになるかもしれません。

それでは今回は、この辺で。ではまた。

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記事作成:よつばせい