「究極のウナギ」を味わうのは大変だという話

究極のウナギの蒲焼

鰻専門店というのは大変です。

ファーストフード店であれば、スタッフに向けに作業マニュアルを作成すれば良いです。

そしてスタッフは、マニュアルに従って作業すれば「お客様にご満足いただけるサービス」を提供できます。どこのお店でも、同じ食べ物を同じサービスで楽しむことができます。

しかし鰻専門店では、マニュアルに従って仕事するだけでは、お客様に満足していただく事は困難です。

今回は具体的な訪問記スタイルで、いかにお客様ファーストが難しいかを紹介させて頂くことにします。

鰻前

和人と明日奈が鰻八の畑町店に辿り着いたのは、まだ暑さの厳しい8月の正午頃だった。日差しが強く、さっそく店内へ入る。

「いらっしゃいませー」とやって来たのは、まだ二十歳代の若い女性だ。他にもスタッフが見えたが、共通の和装ユニフォームに身を包んでいる。おそらく全店で採用されているのだろう。

「まずは手指のアルコール消毒をお願いします。あ、アルコールは自動で出ますから」

そう言われて、二人とも大人しく手指消毒をする。

そして終わるのを待っていたかのようなタイミングで、「次は検温をさせて下さい」と言われた。

もしも検温して37.5度を超えていたら、せっかくの手指消毒が無駄になるだろうかと思いつつ、確認が終わるのを待つ。

もちろん二人とも36度台で、問題は全く無い。そのまま個室に案内される… というか、畑中店は全て個室らしい。

和人が少し驚いたのは、椅子が低かったことだ。未就学児童でも座れる高さだ。

「… ちょっと狭いわね」ボソっと明日奈が、つぶやくように言う。”ウナギの寝床” という言い回しがあるけれども、まさにそんな感じだ。

「ああ、そうだな。たぶんこの椅子が低いのも、天井が高いように感じさせることによって、部屋が広く感じられるエフェクトを期待しているんだろう」

「どこまでVR的な表現をしたいのね。それにしてもこの透明アクリル板で仕切られると、なんか刑務所の面会室みたいな気持ちにもなってくるわ。でもここまで感染対策してくれると、本当に安心できるけど」

たしかに二人の間は、透明なアクリル板で仕切られていた。この板のおかげで、もしも和人が迂闊なことを言っても、箸でリニアーされる… いや、突かれることもないだろう。

まもなく手拭きやお茶がやって来て、二人とも鰻重を注文した。和人は一尾半で、明日奈は3/4尾だ。

「どうしたの、和人君?」と、明日奈が不思議そうに尋ねた。和人が思慮深げな顔をしていたからだ。

彼女の経験則からいって、こういう時には何かが起こっている。早めに知っておいた方が、彼女としても対応しやすい。

「ああ、自分で言い出しておいて申し訳ないけど、どうやら横浜店とは違うらしいと分かってね。」

「へっ?」

彼女は鰻八は初めてだ。彼が何を気にしているかは、見当つかなかった。

「いや、マスク入れが渡されたのは良いんだけど、封筒型なんだ。横浜店ではクリアファイルのようになっていて、マスクを出し入れしやすかった」

「ヘエー、美容室で渡されるのも封筒型だから、気づかなかったわ」

「それだけじゃない、ホームページで自慢しているホウジ番茶の味が平凡だ。横浜店では一級品だと感じたんだけど、喉がかわいていたのかな。それに少しぬるい」

「スタッフが忙しいのかもね」

しかし明日奈の取りなしにも関わらず、和人の表情は曇る一方だった。

「おまけにタレの瓶はあるし、爪楊枝もある。横浜店では食事をする時に山椒だけ鰻重と一緒に来たけど、畑中店では少し自信がないみたいだ」

「へえー、お店によって差があるのね。そういえばこのお店、電話で持ち帰り注文もできるみたいね。便利で良さそうね」

こんなことでは和人の心配を晴らすことは出来ないと知りつつも、彼女は少しでも話題を逸らそうとした。

長年の付き合いだ。彼の性格は百も承知している。本質的に、大変な泣き虫なのだ。おそらく心の中は雨どころか、台風のように暴風雨のようになっていることだろう。

「ああ、その通りだ。メニューの最終ページにレトルトパックや持ち帰りサービスが記載されている」

しかしそんな彼女の気持ちを、和人は察してくれたようだ。

「そういや、ちょっと驚くかもしれないぞ。何しろ…」

和人は鰻のことなど忘れたかのように、最近の世界情勢について語り始めた。

鰻中

40分ほど待った後、待望の鰻重がやって来た。

二人は仲良く手を合わせ、「いただきます」と食べ始めた。

町田の八十八の鰻重

鰻重を食べる時、人は誰もが静かになる。

同じくらい静かになるのは、カニを食べている時だろう。どちらも集中力を必要とするので、こればかりはどうしようもない。

ただ … 食べ進めるうちに、明日奈が不意に和人に話しかけた。

「ゴメン、山椒を使うね」

鰻重を食べるのに、山椒を使うのは当たり前のことだ。和人は意味が理解できないものの、とりあえず頷いた。

そして数分後、明日奈が再び話しかけてきた。

「ゴメン、タレをかけてみるね」

さすがに対人関係を苦手とする和人でも、言いたいことは分かる。それに実は彼にも、思うところがあった。

「ご自由に。遠慮なく」と、彼は言った。

鰻というのは高価な割に、実は短時間で食べ終えることが出来る。

お新香と肝吸いを頂き、デザートのレモンを食べた後、彼らはそそくさと店を後にした。

鰻後

店を出ると、和人は雲一つない空を見上げた。

「同じ食材を使っても、サービス一つで随分と変るんだなあ」

明日奈はグレーの日傘をさして、歩き始めた。

「私も、ちょっと再訪はないかなあ」

和人はため息をついた。

「ああ、巻き込んでしまってゴメン。何か起こらない限り、オレも二度と来ないと思う」

和人も歩き出しながら、ボヤき続けた。

「鰻重を食べに来て、冷めた鰻と御飯に遭遇するなんて初めてだよ。忙しいかもしれないけど、ちょっと辛いなあ。おまけに特大サイズのウナギを中途半端に仕上げると、よほどの高級品でない限り皮裏の脂が残って気持ち悪くなる。あれは近所のスーパーで478gで2,000円のウナギ三尾よりもヒドイ!!」

よほど腹に据えかねたようだ。彼はキレると、バーサーカーのように恐くなる。

しかし今回は明日奈も負けていなかった。

「私はそこまでヒドく感じなかったけど、何かが足りなかったなあ。山椒をかけたけど、それでも足りなかった。タレをかけたけど、それでも足りなかった!!」

それでも瞬殺しなかったのは、やはり彼女がお嬢様育ちだからなのかもしれない。しかし彼女も止まらなかった。

「でも… 味もそうだけど、ちょっとお店が狭かったな。待ち時間が40分だったのは構わないけど、お友達とは来れないよ」

和人も相槌を打った。

「ああ、横浜店は25分だったけど、畑中店は40分だった。どうもこっちは関東風で『蒸し』に力を入れようとしているらしい」

「骨もあったね」

「ああ。画像(冒頭画像)に取っておいた」

もう和人の勢いは止まらなかった。

「もともと2003年に店仕舞いした鰻八だけど、やっぱり再開しても大変なんだろうな。特に畑中店は2016年に再開されている。店長や板前さんの確保も大変なのかもしれないな。『一度あることは二度あるから、解雇されるリスクが高い。だから就職に躊躇する』とか」

「…..」

「それとタレも今ひとつだったみたいだけど、たしかにその通りかもしれないよ。さすがに明日奈が一番気に入っている『くろまち』みたいに、和三盆は使っていないんだ。もちろん砂糖は使わず、味醂(ミリン)だけで仕上げてはいるけど」

「へー」

「おまけにホウジ番茶はWebサイトで自慢しているだけのことはあって、二杯目は美味しかった。つまり一杯目は失敗だったということさ」

「そうなんだ」

「それだけじゃない。レジの上の棚が雑然としていた。狭くて複数人が並べないレジだけれども、会計中は退屈だからアレコレ見渡してしまうよ。その時に散らかった棚を見るのは、ちょっと興ざめだね」

「なんか、分かるような気がする」

もはや和人は、本当に泣きそうな表情になっていた。

「たしかに特大のブランド鰻といっても、普通に仕入れたんじゃ調理しにくいものしか手に入らないかもしれない。しかし横浜店は何とか関西風な感じで、パリッと美味しく食べる出来る仕上がりだった。タレも塗り重ねてカバーしていたみたいで、瓶で追加するようにはなっていかった。小骨もキチンと処理する自信があったから、爪楊枝もなかったんだろう。鰻の蒲焼みたいな食べ物なら、爪楊枝は必要ないからね」

明日奈は慰めるように言った。

「ゴメンね。勝手に付いて来て。でも駅から徒歩数分で便利な場所だけど、私も再訪は無さそうね」

和人は頷いた。

「ああ、畑中店はマニュアル通りに作業しているみたいだけど、鰻専門店ではマニュアルだけじゃ通用しないな。それに他店で研修するまでスタッフ育成に力を入れなくても、食べに行くことくらいは出来る。マスクカバーはハサミで切れ込みを入れれば、横浜店みたいなクリアファイル形式にすることもできる。そういう手間もかけないんじゃ、残念ながら一流店にはなれないな」

「…..」

「あとは細かい話だけど、オレの鰻重は横浜店とは並べ方が逆だった。『沢山ある』感を出すには、尻尾の先端を見えるようにした方が良いよ。重箱に天命… じゃなくて店名を書いているから、言い逃れは出来そうにないな」

そうやって二人はトボトボと肩を落とし、駅に向かって帰って行ったのだった。

まとめ

以上のように、鰻専門店を運営するのはファーストフード店のように、マニュアルだけでは上手く回らないようです。

「たかが鰻重、されど鰻重」というところでしょうか。

ちなみに炭火焼でないと、今回紹介した鰻の蒲焼になることがあるらしいです。

美味しんぼの三巻では、ガス焼きは匂いが付くだけでなく、水蒸気生成のために「ちっともふっくらしちゃいねえ。おまけに中はベショベショだ。鰻の香ばしさがねえのに、変に脂っぽい。まるで出来の悪い焼き魚よ!!」というセリフがあります。

私も今回の例話のような鰻重を食べたことがあります。自分のお財布も去ることながら、せっかくのウナギが気の毒ですね。

それでは今回は、この辺で。ではまた。

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記事作成:よつばせい